いさ走る(主張・メディア掲載)

2015.01.19 「道徳」の「教科化」について

学校の先生たちと、様々、意見交換をさせて頂きました。一番、大きな話題になったのは、「道徳」の「教科化」について。

「教科化」すれば、教育の内容について教科書検定をしたり、あるいは生徒の「道徳」の達成具合について「成績」をつけるということになります。現場の先生の意見は、大反対でした。以下、先生方の主張をまとめてみました。

そもそも、「道徳」の「教科化」を主張する方々は、こう指摘します。近年の子ども達は、「規範意識」が低く、あるいは「公共心」が無い。よって、「問題行動」や「少年犯罪」が多発し、「非行」が深刻化している。だから、子ども達に、「道徳」を教え込み、再度、「規範意識」や「公共心」を育まねばならない。

しかし、実はそもそも、過去と比較して、「問題行動」や「少年犯罪」が増えているということは、間違いです。さらに間違っているのは、例え問題が増えていようが、それは「規範意識」や「公共心」が欠けていることが原因ではないということです。先生方いわく、「問題行動」や「少年犯罪」の原因は、たとえば「貧困の連鎖」によって生活習慣が欠如していたり、あるいは「虐待・DV」などの家庭問題からくる自己肯定感の欠如、メンタルの不安定さが大きな原因だ、とのことです。子ども達のおかれた、こうした環境の問題に、丁寧に向き合ってあげない限り、いくら「規範意識」や「公共心」を机の上で教え込んでも、何ら解決に結び付きません。そもそも、一定の年齢に達した子供たちには、「こうあるべき」、「こうすべき」という「規範意識」は、十分にあります。ただ、わかっていても、それができない状況にある。こうした子供たちの環境を、どのように改善してあげられるか。そこが重要なポイントなんです。

そもそも、「道徳」を「教科化」すると言ったとき、「規範性」や「公共心」を教え込むとなったとき、いったい「何」を「どう」教えるのでしょうか。せいぜい、教科書に偉人伝を掲載したりすることしか、できません。現在の「道徳」の授業では、先生方も様々な工夫を凝らしながら、授業をされています。障がい者施設を訪問し交流したり、あるいは在日朝鮮人の団体と文化を発表しあって、国際交流を重ねたり。人と人とが触れ合う中で、「道徳」の授業を行ってきましたが、はたして、「規範性」や「公共性」、さらには「国際感覚」といったものを、机の上で、教科書で教え込むことが出来るのでしょうか。

しかも、子ども達の心の内面を、先生が外から「評価」することとなります。「評価」を導入すれば、それが学校の成績に反映されることとなれば、それで本当に子供たちが変わるのでしょうか。まったく的外れだと言わざるを得ない。これが、先生方のご意見でした。

「教育」は、人を育てるという、複雑で困難な、だからこそ「やりがい」のある大変な仕事です。それを、現場の実態を知らない者が一側面だけ切り取って、特定の価値観をおしつける。学校側は、対応せざるを得ないので、とにかく「道徳」の授業数を増やして、子ども達を「評価」する。こんなことでは、現場では子ども達に、大人のエゴを見透かされるだけだと、先生方は危惧しておられました。

「教育」の目的とは何なのか。良い人材を社会に輩出していくという、「社会のための教育」なのか。それとも、子ども達の幸福こそが目的であって、そのために社会も支援していく必要があるという、「教育のための社会」なのか。昨今の教育行政の議論をきいていると、今一度、この根本的な問題を、問い直さなければいけないと思っております。先生方の熱意に非常に感銘を受けました。偏ることのない教育行政となるよう、国政でもしっかりと議論をしてまいりたいと思います。