いさ走る(主張・メディア掲載)

2014.07.05 「集団的自衛権」の議論の経緯と内容について

私が地元地域や各所で国政報告をさせて頂く中、この数か月の間は、常に「集団的自衛権」をテーマとして、お話をさせて頂きました。数人の小規模な「語る会」では膝を突き合わせて、あるいは大会場では時間をかけて丁寧に、様々な機会をとらえて、その時々の最新の状況とともに、皆さんからの声をできるだけ頂いて参りました。ご不安の声、ご懸念の声、そうしたものも聞かせて頂いたうえで、この数か月間、「集団的自衛権」の協議に臨んでまいりました。
今回、閣議決定がなされましたので、今回の議論の経緯や中身について、私自身の考えも含めて、ご報告をさせて頂きたいと思います。

 

Ⅰ.初めに
まず冒頭、この2点だけは申し上げたいと思います。
1点目は、公明党は「平和の旗」を下ろしたのか、という批判を頂きます。これは、「全く逆だ」とはっきり申し上げたいと思います。「平和の旗」を掲げて、護り抜いたからこそ、今回のこの結果、つまり「平和憲法」の精神を守ることができたと思っております。詳細は、後ほど説明いたしますが、もし連立政権にいるのが我々ではなく、「集団的自衛権」に積極的な他の政党がいたとすれば、「歯止め」や「冷静な議論」は難しかったかもしれません。憲法9条の意義そのものが、失われる事態となっていたかもしれません。
我々は、「平和の党」の党是のために、戦って参りました。交渉の最終盤、井上幹事長は党の会合でこう断言されました。「平和の党の党是を曲げてまで、連立を組む必要など、全くない!」。逆に言えば、今回の閣議決定は、「平和の党」の党是を守れるところでしか、合意しなかったということです。そこははっきりと申し上げたいと思います。

2点目は、新聞、テレビなどの今の報道についてです。事実とかけ離れた間違った情報や、「こういう見せ方」をしようという意図があまりに露骨で、今回の議論がきちんと伝わっているとは思えないことです。国民の皆さんの間で、誤解に基づく不安が、どんどんと広がってはいないか、ということです。
たとえば、「日本は戦争できる国になった。」「息子を戦争に送りたくない」などの意見が、メディアで報道されています。しかしこれは、全く事実ではありません。自公協議が始まるスタートとなった5月15日、安倍首相の記者会見において、きっぱりこう言っております。「自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません。」
つまり、戦うことを目的として、自衛隊を他国に送ることは、有り得ません。すでに議論のスタートの時点から、否定されているんです。公明党の強い意向が反映され、協議のスタートの段階から、イラク戦争や湾岸戦争のような他国の戦争への参加は否定されているんです。それが今でも、「他国と戦争できる国になった」という報道は、悪意を感じざるを得ません。

 

Ⅱ.日本国憲法の精神
では、今回の議論はどういうものだったか。まず「集団的自衛権」を語る前に、確認をしておきたいのは、そもそも「自衛権」とは何か、ということです。
日本の憲法9条は、何と言っているか。「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」また、第2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とあります。つまり、「戦争しちゃだめよ!」と言っているわけです。「戦争」したらいけないのに、じゃあ、自衛隊とは何なのか。果たして、自衛隊は「違憲」なのか?
そうではありません。日本国憲法には9条以外に、たくさんの条文があり、様々なことを述べています。たとえば、前文とか、あるいは第13条では、こう書いています。日本国民は、「幸福」になる権利がある、と。また、「生きる」権利があると書いています。「自由」になる権利があると書いています。そして、国はそれを「守らなければいけない」と書いているんです。つまり、他国が攻めてきた、あるいはミサイルが撃ち込まれた。日本国民の生命が、危機に瀕している。その時には、国は日本国民を守らなければいけません。やられたら、それを防ぎ、排除しなければいけません。それが、自衛隊の役割です。それが、個別的自衛権です。
つまり、「憲法の精神」とは、相手が気に入らないからといって、自分から喧嘩をしかけることは許されません。しかし、もし相手が襲ってきたら、攻撃されたら、それを防いでも良い、排除しても良い。これが、日本国憲法なんです。

 

Ⅲ.集団的自衛権とは
それでは、「集団的自衛権」とは何でしょうか。それは、今の憲法で自分を守れることはわかったけども、友達を守ることができるかどうか、ということです。
たとえば、私と友人が大阪の街を歩いている。そこに、暴漢が襲いかかってきた。暴漢が友人を殴り、私の横で倒れている。殴られ続ける友人は、私に「伊佐、助けてくれー」と叫ぶ。その時、私は何と答えるかというと、「○○ごめん!おれ集団的自衛権が無いから、助けられへんねん」。はたして、これでいいんでしょうか。友人が目の前でやられているのに、何もしなくていいんでしょうか。これが、「集団的自衛権」の議論のスタートです。
米国の船が日本の船とともに行動している。その時、他国が米国の船を攻撃してくる。ミサイルが撃ち込まれている。米国の船が日本に、支援を要請をする。このまま放っておけば、米国の船は沈んでいくかもしれない。果たしてその際、本当に何もしなくて傍観しているだけで良いのか。これがスタートです。

しかしこれには、困った点があります。こういう場合はどうでしょうか。この友人がたとえば、名古屋で喧嘩を始めた。北海道で喧嘩を始めた。その時、友人が私の携帯をならして、「伊佐ごめん、いま喧嘩してるから、助けにしてくれ」と言ってきた。その時、私は、名古屋や北海道まで出かけて行って、友人を助けなければいけないんでしょうか。「いやいや、そこまでは付き合えません。じゃあ「大阪」だけなら助けます。君が大阪でやられている場合に限定して、その場合なら助けてあげる。」こういうルールの決め方もあるかもしれません。これを、「限定容認論」といいます。
つまり、アメリカはこれまで、世界各地で戦争をしてきました。イラクやアフガンや、遠い国々で戦争をしてきました。そのたびに、日本がお付き合いをして戦争をする、そんな必要はないだろう。ましてや、地球の裏側まで行く必要はないのではないか。せめて、米国を助けるのは、日本の周辺だけに限定したらよいのではないか。これが、「集団的自衛権」の「限定容認論」です。

冒頭申し上げたように、5月15日の時点で、すでに安倍首相の意図も、こうした、「限定」が前提となっていました。「限定的に集団的自衛権を行使する」ことについて、まず政府で「研究」しようと発言しています。つまり、繰り返しになりますが、「他の国のために戦争する」という従来型の集団的自衛権や、集団安全保障は、この時点で最初から否定されているんです。

 

Ⅳ.3つの議論のポイント
さて、ここからが5月15日以降の自公協議の話となります。我々は、簡単に言えば3点について、徹底的に話し合いました。一つは、「必要性」。そして二つ目が「歯止め」。三つ目が、「解釈変更の限界」です。
(1)必要性:本当に「集団的自衛権」じゃなきゃダメなのか。
まず、「必要性」の議論から始まりました。果たして、本当に「集団的自衛権」が必要なのかどうか。「集団的自衛権」じゃなきゃ対応できない場合が、本当にあるのかどうかです。
たとえば、先ほどの例では、私と友人が街を歩いていて、隣で友人が襲われた、と申し上げました。すぐ横で、殴られ続けて、私に助けを求めている。しかし、よく考えてみると、本当に、友人だけが殴られ続けることって、あるんでしょうか。襲ってくる暴漢からすると、すぐ横に突っ立っている私も、仲間だということは分かっているはずです。その私を放っておいて、友人だけ殴り続けるってことが、合理的にあり得るんでしょうか。普通なら、友人が殴られるのと同じく、私も殴られるはずです。もし私が殴られれば、私はその時点で、暴漢を殴り返すことが可能となります。「やられたら、阻止できる」というのが、これまでの憲法解釈です。結局、私も殴られるんだから、これまで認められている個別的自衛権で、きちんと対応できるのではないか。こうも考えられるわけです。
自公協議の中で、こうした事例を一つずつ、検討していきました。本当に「集団的自衛権」でないと対応できないのかどうか、15個の具体的な事例をあげて、一つ一つ丁寧に議論をしていきました。そうすると、「集団的自衛権」ではなく、これまでの憲法解釈の個別的自衛権で対応できるものもありました。警察権で対応できるものもありました。あるいは、法制度の問題ではなく、運用上の問題というものもありました。こうして、一つ一つの事例を、自公協議で丁寧に埋めていったのです。
さて、そのうえで、様々な対応を考えても、結局残ってしまう「スキマ」とはどこにあるのか。何らかの新たな対応が必要となる「スキマ」とは、何なのか。そういう議論を重ねて参りました。

(2)歯止め:どう限定するのか
さて、ではどうしても埋められない「スキマ」がある場合であっても、次に大事な議論は、どうやって「歯止め」をかけ、限定をしていくのかです。きちんとした「歯止め」がなければ、当然、われわれは合意できません。自民党と、限定の考え方について、協議を重ねてきました。
一つの考え方は、「地理的」な限定の仕方です。先ほどの例でも申し上げた通り、例えば「大阪での喧嘩には付き合うけど、それ以外は対応しません!」といった形の限定の仕方です。しかし、今回はその限定の仕方は、結局、採用しませんでした。

もう一つの限定の仕方、そしてこれが今回の閣議決定の結論となったものです。それは「憲法の精神」で限定をかける、というものでした。これまでの「憲法の精神」を守り、その範囲でしか対応しないようにする、というものでした。
「憲法の精神」とは何か。それは、「自分からは喧嘩はしないけど、いざとなれば、国民の生命、自由、幸福追求の権利は、断固として守る!」というものです。「憲法の精神」の範囲で許される、つまり、「憲法の精神」の範囲でしか許されないものは何なのか。日本国憲法のこの精神を崩さない範囲とは何なのか。
たとえば、米国の艦船が、日本を守るために活動をしている。日本の国民の命を守るために、行き来をしている。そこで、その米国の艦船が攻撃された。このまま放っておくと、米国の艦船も沈むが、何よりも、我が国の「国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される」という状況の場合。そして、日本を守るためには、他に手が無い場合。この「極限の場合」、確かに今までの憲法解釈では、日本は何も対応できませんでした。このスキマを、きちんと埋めてあげないといけない。それは、我々公明党も賛成でした。よって、この「極限の場合」に限ってだけ、自衛隊の対応を認めた。これが、閣議決定の考え方です。
確かに、日本の船が攻撃されているわけではないので、国際法上は「集団的自衛権」として判断されることも、あるかもしれません。しかし、目的は、あくまで「自国防衛」です。結局、「集団的自衛権」の本来の目的である、「友人を守る」という目的では、日本は対応しないんです。最初に攻撃されたのが日本の船であれ、米国の船であれ、その攻撃が、我が国の国民の「生命、自由、幸福追求の権利が根底から覆される」場合にしか、結局は「憲法の精神」の「自国防衛」の範囲しか、対応しないということとなりました。
今回の閣議決定は、あくまで「自国防衛」しか認めない。日本の国民の生命を守るためにしか、自衛隊は動かない。いわば、「個別的自衛権」に、「薄皮一枚」をかぶせた部分くらいしか認めていません。そもそも、そんな「極限の場合」があるの?米国の船が攻撃されていて、日本国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるような場合なんて、どれくらいあるの?と聞かれれば、実はそんな場合は、「めったに」ありません。逆に言えば、そんな超レアケースの「薄皮一枚」の部分しか、対応できる範囲を認めなかったということです。

(3)解釈変更の限界:憲法改正か解釈変更か
三点目の議論は、「憲法改正」か、「解釈変更」か、という点です。「憲法改正」とは、考え方を変えるのであれば、きちんと憲法の条文を書き換えるべきだという考え方です。一方、「解釈変更」とは、憲法の条文はいじらずに、解釈だけを変えてしまうというものです。我々公明党は、当初から「解釈変更」は筋が通らないと申し上げてきました。
憲法の解釈というのは、戦後70年にわたって積み上げられてきたものです。われわれの大先輩たちが、国の有るべき姿を議論し、積み上げてきました。それをもし、安倍政権の一内閣が、条文はそのままで解釈を変えられるのであれば、安倍政権の次の政権が、「いやいや、私はこう思う!」と、別の考え方で、新たな解釈が可能となります。さらに次の政権では、また別の考え方で解釈がなされと、次々と憲法の解釈を変更できるようになってしまいます。果たして、憲法とは、そんなに軽いものなんでしょうか。決してそうでは無いはずです。
今までの考え方を大きく変えるのであれば、「解釈変更」でなく、「憲法改正」とすべきです。憲法とは、国民のものです。憲法は、法律とは全く違います。法律は、国が作り、そして国民の生活を縛るものです。「高速道路は何キロ以下で走らなければいけない」とか、「人の物を盗ると、何年以下の懲役だ」とか。法律は、国民の皆さんの生活や経済活動を縛るものなんです。
ところが、憲法は全く逆です。国民の皆さんが、国を縛るものなんです。「政府はこれをしなければいけない」、あるいは「国会はこれをしてはだめだ」、また「裁判所はこうしなさい」と、国民の皆さんが、国を縛るもの大切な道具が、憲法なんです。つまり、憲法は、皆さんのものです。それであるなら、憲法の考え方を変えるのであれば、きちんと「憲法改正」をすべきです。なぜなら、「憲法改正」の手続きには、「国民投票」があります。国民の皆様一人一人が一票をもち、賛成か、反対かを投じることができるのです。皆さんの憲法なんだから、皆さんが判断する。とのためには、「憲法改正」が必要です。
そしてそれは、逆に言えば、今回の閣議決定は、憲法改正をしなくて良い、ぎりぎりの線はどこか、これ以上やると、憲法改正をしなければいけないという線はどこかを、決めていく作業でした。つまり、この線以下なら、「解釈変更」として許されるが、この線を超えると、絶対に「憲法改正」をしなければいけない。その一線を確定する作業こそが、自公協議でした。「解釈変更」として許される範囲は、どう頑張っても結局「薄皮一枚」分しかないでしょ、ということを、自民党とともに確認する作業だったんです。

そもそもこれまで、憲法の解釈は、時代の流れとともに変化をしてきました。戦後間もないころは、吉田茂首相は、自衛権の存在すら実質的に否定してきました。自衛隊も認めていませんでした。ところが冷戦が激しくなる中で、自衛隊は必要だし、「憲法に違反しない」という解釈が固まりました。そして1960年の日米安保の時代には、日米が共同で防衛するのは、あくまで、「領土・領空・領海」内、つまり日本国が支配する場所に限っていましたが、2003年の解釈では、日本の海を越えて、「公海上」にまで拡大 されていきました。つまり、これまでも日本を取り巻く環境の変化によって、「自衛権」の考え方が変化してきたのです。少しずつ、拡大解釈がなされてきたと言ってもよいと思います。
しかも、そうした拡大解釈が、国民の代表が議論する「国会」で決められてきたわけでもなく、法の番人の「裁判所」が言ったわけでもない。あくまで、行政が、政府が、その時ごとの判断で、解釈を変更してきたんです。
公明党は、今回の議論は、チャンスだと認識しました。これまでは、こうして「自衛権」の範囲が拡大解釈されてきた状況であるなら、ここらできちんと、限定をかけないといけません。「これ以上は、解釈変更ではいけません!」という、「歯止め」をどこかで、かけないといけません。しかもそれは、これまでのように「政府」が勝手に決めるのではなく、国権の最高機関である「国会」が決めていくべきだ。そういう思いで、自公協議に臨んでいました。
「憲法改正」でなく、「解釈変更」で、ずるずると自衛権が拡大していくことは、避けなければいけません。この範囲を越えたら「憲法改正」だという線を、自民党とともに確定をすることができました。そして解釈変更で許される線は、結局、「薄皮一枚」しかないことを、確認することができました。
これは、重要な成果です。今後、自衛権を更に拡大解釈しようとする人がでてきても、今回の閣議決定で「薄皮一枚」を上限としたわけですから、それ以上であれば、国民の皆様が決める、「国民投票」をせざるを得ないことが、はっきりと決まったのです。

 

Ⅴ.「平和の党」として
冒頭、公明党は「平和の党」の旗印を降ろした、との各メディアの報道は、全くの筋違いだと申し上げました。それは、これまでの自民党との協議の経緯を見れば、明らかです。
公明党の党是は、「平和の党」ですが、自民党にも党是があります。それは「自主憲法の制定」です。そして、「集団的自衛権」の「全面解禁」なんです。自民党は、「集団的自衛権の全面解禁」を公約として、国民の皆さんに約束をして、選挙を戦ったんです。「集団的自衛権」こそ、自民党にとっても、譲れない党是の一つであったはずです。そういった意味では、今回の自公協議は、公明党と自民党の、党是と党是に関わる、激しい議論だったんです。

私見ですが、安倍首相は、歴代首相の中でもとりわけ、「集団的自衛権」について思い入れが強い首相だと思っています。小泉政権を引き継ぎ、安倍首相が誕生した第一次安倍政権では、安倍さんはすぐに「安保法制懇」を立ち上げ、有識者によって「集団的自衛権」の議論を始めました。そして考え方をとりまとめ、報告書が出来上がったころには、安倍首相は体調不良で退陣、既に福田内閣が発足していました。報告書を受け取った福田首相は、安倍首相ほどの思い入れが無かったのか、受け取っただけで、何ら具体的な議論を始めようとはしませんでした。
一昨年の12月、安倍さんは再び首相として返り咲きます。第二次安倍政権の誕生から時をおかずして、その翌月、すぐに立ち上げたのが、「安保法制懇」でした。再び、念願であった「集団的自衛権」の議論を開始したのです。その報告書は、昨年の5月には既に、ほぼ内容は固まっていたと言われています。安倍総理としては、報告書を提出後、早々と自公協議に入りたかったでしょう。ところが、その際、公明党が掲げる優先順位は、全く違っていました。昨年5月といえば、消費税を増税するかどうかの判断の前です。我々がまず取り組むべき仕事は、景気回復であり、あるいは年金や介護や医療といった社会保障制度の改革であったはずです。そして何よりも、東北被災地の復興であったはずです。こうした公明党の強い思いも受けて、「集団的自衛権」の議論の優先順位も、どんどん後ろに下がってきました。そして今回、ようやく1年も遅れて、本年5月15日に報告書が提出され、自公協議がはじまったのです。

この5月15日の報告書の完成とともに、安倍首相は自ら記者会見を行います。その記者会見により、従来、自民党が考えていた「集団的自衛権」を、安倍総理自身が、大幅に縮小することとなります。報告書には、自民党の党是の通り、「集団的自衛権」を「全面解禁すべし」と書いています。しかし、間髪を入れずに行われた記者会見において、安倍総理はその内容を否定します。政府は「全面解禁」を認めず、あくまで、「限定的」な「集団的自衛権」について議論をすると、発言したのです。つまり、公明党の「全面解禁は絶対に認められない」という強い姿勢を受け、安倍首相のつくった有識者会議にもかかわらず、自らその内容を限定することとなったのです。
さらに言えば、この会見で安倍総理は、「集団安全保障」も否定しています。「集団安全保障」とは、人道上の罪などを犯した国が、「悪い国だ」と国連で認定されれば、国連の名のもとに各国が一緒になって「お仕置き」をする。そんな制度の事を意味しています。報告書においても、「集団安全保障」への参加を可能とすべき、と記載されています。しかしその意見も、安倍首相は即刻、否定ました。「自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません。」と。

報告書の提出を受けて、自公協議が始まりました。その経緯は既に申し上げた通りですが、「限定的」とした「集団的自衛権」の範囲も、公明党の強い主張をご理解頂き、どんどん狭まっていきました。そして最後は、「薄皮一枚」となってしまうのです。「個別的自衛権」の上に「薄皮一枚」を被せるだけで、他国のために戦うことはせず、あくまで「自国民の生命、自由、幸福追求の権利」を守るときにしか、戦わない。こうした、「憲法の精神」を守る閣議決定がなされました。
こうして、党是と党是の議論は、最後は、自民党が公明党に十分な理解を頂く形で、決定がなされました。閣議決定を知った元外務省職員の文筆家、佐藤優氏の言葉を借りれば、「公明党の圧勝」との評価も頂いております 。
自民党内でも、あるいは新聞各紙でも、「集団的自衛権」に積極的な方々からすれば、今回の結論に不満を持っていらっしゃる方々もいるようです。「こんな、「薄皮一枚」くらいなら、やっても仕方がない」。その声こそが、われわれ公明党が、「平和の党」の旗を掲げて戦った証拠だと思います。

 

Ⅵ.なぜ、「今」なのか
今回の閣議決定に際して、みなさんから頂くご意見の中で多いのが、「なぜ、そんなに急ぐんですか?」というお声でした。なぜ「今」だったのか。
初めた協議は、どこかで結論を出さないといけません。自民党も公明党も、あるいはそれを報道するメディアも、この「集団的自衛権」に多くのエネルギーを費やしてきました。それは、連日のニュースを見て頂くと、お察しがつくと思います。国会閉会後、多くの議員が地元に帰るなかで、地元と東京を往復し、連日のように党内協議を重ねたのは、公明党だけでした。国会議員のほぼ全員が参加し、連日、激しい議論を重ねて来ました。
しかし、現在、日本が抱えている課題、自公政権が取り組まねばならない政策は、他にもたくさんあります。1年半前の自民党と公明党の連立政権発足にあたり、我々は政権の優先事項を文書に残しました。自公政権は、何を優先して取り組むか。自民党総裁たる安倍首相、そして公明党の山口代表の署名も入っているその合意文書には、その最優先事項として「被災地の復興」をあげています。震災から3年以上の年月が流れた今でも、いまだ25万人の方々が避難生活を余儀なくされています。10万人の方々が、仮設住宅、プレハブ住宅に住まざるを得ない状況です。こうした被災地の現状を改善することこそが、最優先事項ではないでしょうか。
優先事項の二つ目にあげられていたのは、「景気回復」です。アベノミクスで、確かに景気は回復傾向にあります。デフレも脱却し、GDPの数字も上昇しました。しかし、本当に、景気は回復したんでしょうか。全国津々浦々まで、景気回復の波がいきわたったんでしょうか。私が、地元で皆さんの声を聞く限りは、「ふところが暖かくなった」とか、「主人の給料あがった」という声は、まだまだ多くはありません。いよいよこれかがら、景気回復に向けた戦いの、正念場ではないかと思っています。
連立政権発足時のその合意文書には、「集団的自衛権」については、一切、記述がありません。そんなところで、議論を長びかせて、莫大な政治的エネルギーを使い続けることは、決して正しい形とは思いません。今回の閣議決定の内容は、国民の命と平和を守るために、公明党も必要だと確信できるものとなっています。それであるなら、それはそれで結論を示し、今でも変わらず優先課題であるはずの「被災地の復興」や、「景気回復」、あるいは「社会保障の改革」などに、取り組んで行くべきだと思います。

さらにもう一点、私見を申し上げると、このまま自公協議を続けても、国民の皆様の理解は深まらないと思いました。連日の報道をみても、日経新聞や読売新聞、産経新聞は、「集団的自衛権」賛成の立場で、さまざまな記事を書いている。一方、朝日新聞などは、反対の論陣をはっている。しかしそのどちらも、議論を正しく国民の皆様に伝えているものだとは思えませんでした。誤解か、あるいは意図的に曲解する記事が多く、そうした報道に触れるしかない国民の皆様にとって、こうした今の状態が、良いものとは思えませんでした。
こういうことがありました。国会で集団的自衛権についての議論がなされている際、私の発言が、一般紙やNHKに大きく取り上げられました。「公明若手の伊佐氏 異例の発言 集団的自衛権認めてもいいのでは」との見出しが、新聞各紙に見られました。外務安保合同審査会での質疑において、質問の中で私が発した言葉に、原因がありました。
私は、質疑において、小野寺防衛大臣に強く迫りました。「しっかりとした歯止めが必要だ」。そしてこう申し上げました。先ほども申し上げた「必要性」があり、そして「国民の理解」も得られ、さらには、憲法改正も含めた「きちんとした手続き」がある。この3つができるのであれば、「集団的自衛権」の限定容認論も「認めてもいい」。でもそのためには、「冷静」で「丁寧」な議論が大前提ですよ、と申し上げました 。するとメディアは、この「集団的自衛権」を「認めてもいい」という発言だけを抜き出して、「異例の発言」と報道しました。
特徴的であったのは、「集団的自衛権」に積極的な産経新聞、読売新聞は「公明党も理解」として発言を報道すれば、逆に反対の朝日新聞は、「いやいや、伊佐の発言の真意は違う」と打ち消す報道がでる。結局は、私の発言も、賛成派にも反対派にも、違う角度で取り上げられるという状況となりました。

閣議決定といった最終的な方向性が定まらない中で、私自身は、その中身を国民のみなさまに説明していくことに、限界を感じていました。あるいは、そういう状況こそが、メディアの不正確な報道につながったのかもしれません。しかし、閣議決定がなされた今、その決定内容も協議の経緯も、こうしてはっきりとお示しすることができます。7月1日の閣議決定以降、まだ説明しきれていないところもあるかとは思いますが、それでも、少なくない方々から、公明党の今回の仕事を、高く評価するコメントが相次ぎました。
たとえば、元外務省職員の佐藤優氏が、「公明党の圧勝」と表現されたことは、先ほど紹介したとおりです。また、田原総一朗氏も、「公明党なしではバランスが取れない自民党の危なっかしさ」 という記事の中で、「公明党は良く頑張ったと評価している。」と書いてくれています。今後、時間が経てばたつほど、我々公明党が積み重ねてきた議論の詳細が、世の中に知られていくことになるでしょう。そうすれば、必ず、公明党の役割や位置づけが大切であったことが、後々、はっきりと評価されることとなる。私は、そう確信をしています。

 

Ⅶ.最後に
私は、今回の議論を通じて、思い出すことがあります。それは、20年以上前、日本がPKO法案で、初めて海外に自衛隊を派遣することを議論していた時の状況です。
当時、多くのメディアは、「ついに日本も戦争できる国になった」とか、「わが子を戦争におくるのか」など、日本が戦後守ってきた平和憲法を捨てるかのような報道をしておりました。当時、公明党は賛成したわけですが、その時も「公明党は平和の旗を降ろすのか。」と批判がなされました。
しかし、20年たってみて、どうであったか。自衛隊は、世界のいたるところで活躍し、多くの国々から感謝されています。フィリピンでハリケーンがあれば出動し、インドネシアで津波があれば、飛んで行ってお手伝いする。荒廃したイラクでは、国土再建のために日本人が汗を流す。PKOに参加できなかった頃、日本は世界から、冷たい目で見られていました。「日本は、自ら汗をかかずに、お金だけで解決しようとする。」ところが、いまや、日本の自衛隊は、世界の友人のために、自ら泥にまみれて働いています。その当時、公明党をさんざん批判した新聞は、はたして現在でも、PKOに反対なんでしょうか。
私は、今回のこの公明党の戦いは、時間がたてばたつほど、必ず理解され、評価されるものだと胸を張って申し上げたいと思います。我々の根底にあるものは、「二度と戦争をさせない」という信念です。決して、あの間違いを繰り返してはいけません。戦争がおこってしまうという時点で、既に政治は失敗なんです。「平和ほど尊いものはない」。だからこそ、「平和の党」として、今後もその一員として、頑張ってまいりたいと思っております。